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2018.5.6

日本遺産~滋賀県~P4~「大溝の水辺景観」

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みなさま こんにちわ~(^_^)

今回は…「大溝の水辺景観」 ご紹介です。

 

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町割り水路

 

◆大溝城と城下町
天正6年(1578)、織田信長の甥にあたる織田信澄は、長浜や安土と同様に内湖を天然の水堀として利用した大溝城と城下町を建設しました。同時に、西側山麓を通っていた街道を城下へ付け替え、大溝湊の整備を行いました。
大溝城の北西側には侍町及び町家を配置するとともに、乙女ヶ池東側の砂州(さす)上に展開する打下地区には、平時は舟運や漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団を配置しました。

さらに、元和5年(1619)に大溝藩主として入部した分部光信)(わけべ・みつのぶ)は、大溝城跡に陣屋を置くとともに、城下には武家地と町人地を設けました。武家地は堀と塀で囲まれ、やや規模の大きな地割りとされたのに対し、町人地は間口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割りとされ、通りの中央には水路が敷かれました。
また大溝湊を現在の規模まで拡張するとともに、西側山麓には分部氏の転封に伴って移転してきた寺院が配置されました。
その後、明治時代初期に蒸気船が就航し、昭和2年(1927)には鉄道が敷設されるなど、大溝を取り巻く交通事情は時代とともに変化しますが、旧街道に沿って宅地が細長く連なる集落構造は、現在も受け継がれています。

 

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大溝城跡石垣

 

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乙女ヶ池と打下集落

 

市内で3か所目の重要文化的景観に選定された「大溝の水辺景観」は旧高島町内にあり、天正6年(1578)、織田信澄(おだ・のぶずみ)によって整備された大溝城跡および城下町、町並みを走る水路、琵琶湖の内湖(ないこ)である乙女ヶ池、乙女ヶ池沿いにある打下(うちおろし)集落の水面利用の伝統的集落景観などを含む、約1384.1ヘクタールを選定範囲としています。
大溝の水辺景観は、中・近世に遡る大溝城とその城下町の空間構造を現在も継承する景観地であり、琵琶湖と内湖の水、あるいは山麓の湧水を巧みに利用して営む人びとの生活や生業によって形成されてきました。

 

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大溝の水辺景観の場所性

 

ホテル21から約90分ぐらいです。